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被爆体験伝承の講話を聴きました!(6年生 平和学習) 1月29日(月)
2024年1月29日 09時07分先週金曜日(26日)、6年生は、広島市から被爆体験伝承者の中原様をお迎えして、平和学習を行いました。
袋井市では、平成27年度から「広島平和記念式典中学生派遣」を行っています。今年度も16人の中学生が広島を訪れました。
市内の全小学校では、被爆体験伝承者をお招きして講演をしていただいています。子供たちが、我が国で起こった戦争の現実を知り、平和について考え、平和な世界の創り手に育っていけることを願っています。
中原さんは、地元の新聞社に勤められた後、地元の大学の教員として働き、退職後に伝承者としての活動を始められたそうです。ご両親が被爆され、義理のお兄さんは被爆により亡くなられたそうです。中原さんは、被爆当時中学2年生だった山本さん(現在91歳)の体験を伝承されています。戦争末期の日本の状況、子供たちの置かれた状況、原爆投下時、投下後の悲惨な状況をお話ししてくださいました。
第二次世界大戦下の1941年、日本はそれまでの尋常小学校、高等小学校を国民学校と改称しました。子供たちも「国のために身も心もつくす」ことを定める法律が制定されたのです。
広島市には、平和大通りという幅100mにも及ぶ大きな道路があるのですが、もともとその大通りは戦時中に作られた防火帯だったという話をうかがいました。防火帯とは、空襲の被害を最低限にとどめるために事前に家や建物を取り壊しておいて延焼を食い止める直線状の空き地のことです。広島市では、その防火帯を作るための家屋の解体作業に子供たちがかり出されたそうです。平和大通りという名称の裏に、そんな歴史があったとは知りませんでした。
原爆投下当日、その防火帯を作るために、山本さんの一つ下の学年、中学1年生321人が爆心地のすぐ近くの場所に集められていました。子供たちは、上空にB29が飛来するのを見ていました。「敵機だっ!」と叫んだ子もいたそうです。やがて3機のB29のうちの1機からドラム缶のような物が落とされました。投下された物は、子供たちが見上げる目の前の空で爆発しました。原子力爆弾でした。先生たちも含めるとそこにいた354人もの人が命を落としたそうです。犠牲者のお名前が刻まれた慰霊碑の写真も見せていただきました。山本さんたち中学2年生は、軍事教練で爆心地からは離れた場所に集められていたため、生き延びることができました。学年一つの違いで、運命はまったく違っていました。
50分間の講演でした。講演前、中原さんは「原爆資料館ではいつも大人相手に話をしているから、小学生の子供たちに話すことにはあまり慣れていないんです。」とおっしゃっていました。それでも、元小学校教員だった同じ伝承者仲間に相談しながら、今回の講演の準備をしてくださったそうです。「この言葉で、この言い方で子供たちに伝わるだろうか・・・」たくさん悩まれたようです。ご講演を聴きながら、私自身いろいろなことを考えさせられました。被爆体験伝承者としての中原さんの熱い思いは、子供たちにもしっかりと伝わっていたと思います。
講演後、子供たちと話をしている中で、こんな話をする子がいました。「先生、日本は大丈夫だよね。日本は戦争しないもんね。」私には、「日本は大丈夫だよ。」と言うことはできませんでした。今、ウクライナやガザで戦争が起こっていますが、戦争をしたくて戦争をしているわけではありません。近隣諸国でも戦争を心配している国もあります。日本も例外ではないと考えている政治家もたくさんいて、ここ1,2年で我が国の防衛費増額の方針が決まりました。
過去を知ることで現在と未来のあり方を考える。子供たちだけでなく、私たち大人も知らなくてはならないことがたくさんありそうです。